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平和を考える戦争遺物 千歳中に残る「転圧ローラー」

公開日 2020年8月14日

最終更新日 2020年8月14日

千歳中学校に残る転圧ローラー

太平洋戦争終戦の年、昭和20年3月。陸軍から、千歳村の鹿道原(ろくどうばる)に飛行場の建設が命ぜられました。4ヶ月におよぶ突貫工事には千歳村の村民はもとより県内各地から多くの人々が動員され、1500メートルの滑走路が完成しました。
この飛行場は戦争末期に全国各地に設けられた「秘匿飛行場」の一つで、豊後大野市(旧大野郡)には千歳町(旧千歳村)と三重町の2ヶ所に建設されました。

千歳村誌には、飛行場の完成後、まだ二十歳にも満たない若い飛行士とともに4機の練習機が配備されたこと。そして、機体から教官の座席を取り外して、追加の燃料タンクとしてドラム缶が積み込まれるなど、飛行距離を伸ばすための急ごしらえの改造が施されていた証言が記されています。

やがて訪れた終戦により練習機はついに飛び立つこともなく、また飛行場も田畑に姿を変えました。飛行場に関する記録は大半が処分されたと思われ、わずかに残った資料には練習機は占領軍によって焼却されたと記されています。

転圧ローラーは滑走路の路面を締め固めるために使われたと思われ、戦後、飛行場付近の谷に遺棄されていたものを千歳中学校の教師と生徒が持ち帰り、運動場などの整地に利用していたようです。
そして、ローラーは今日も学び舎の一角に、静かにその体を横たえています。

戦後75年。緑あふれるこの地にかつての戦いの痕跡を見つけ出すことはできなくなりました。時代の荒波に翻弄された人々の記憶もまた忘れ去られようとしています。
ただ、転圧ローラーだけが、物言わぬ語り部として往時を今に伝えています。

鹿道原の航空写真(昭和22年撮影)

昭和22年頃の千歳村を写した航空写真
食料事情が厳しかったこともあり、終戦から2年を経ずに田畑として利用されていることがうかがえるが、おぼろげながら滑走路の概要が見て取れる。(青線で示した部分)
滑走路は、現在の千歳農村環境改善センター付近から北東方向に伸びている。

出展:国土地理院ウエブサイト【1947年4月(USA M198-2 97)】
(地理院の航空写真データを一部加工しています)

練習機

旧日本陸軍の練習機
練習機とは文字どおり、飛行機の操縦を練習するための飛行機で、前席に訓練生、後席に教官が乗って指導するように作られている。
鋼管や木製の骨組みに帆布を張った構造で、当時を知る人も「二枚羽(主翼が2枚)の」とか「布張りの飛行機」と証言していることから、配備されたのはこの機体、もしくはこれに類するものと思われる。
戦争末期、練習機まで改造して体当たり攻撃に使用することが考えられており、千歳村誌にも「飛行機の中にはドラム缶が入れてあった。若い飛行士は「明日は出撃かも知れない。このドラム缶は燃料で往復分はない」といい、そのあと子どもたちと相撲をとったりして遊んだ」というくだりがある。
練習用の飛行機であるため速度は遅く、人に例えれば、練習機は「かけっこが得意な子ども」、米軍機は「世界レベルの陸上選手」ほどの性能の差があった。

現在の鹿道原

現在の鹿道原の様子
千歳農村環境改善センター付近から、滑走路が延びていたと思われる北東方向を望む。
往時の面影は無く、豊かな台地が広がっている。

参考資料

  •  「千歳村誌」 千歳村 1974年
  • 「大分の空襲」 大分の空襲を記録する会 1975年

お問い合わせ

千歳支所 
電話:0974-37-2111