公開日 2015年3月3日
最終更新日 2023年2月10日
県指定有形文化財(美術工芸品)
(絵画) 絹本彩色弘法大師画像
蓮城寺に所蔵されており、右手に五鈷杵(ごこしょ)を持ち、左手を膝上において念珠を爪繰り、牀座に坐するなど典型的な真如親王筆様の図像である。描線はいくぶん硬く、大師の肉身部に黄白土を塗り細墨線で書き起こし、口唇は朱、法衣は黄土、五鈷杵は金泥、念珠は白色顔料を各々塗るなど、日本仏画の伝統的な技法による彩色法が認められる。右上に弥勒像剥落の讃岐の御影といわれる。表現に形式化があるものの保存状態はよく、14世紀後半の製作と考えられている。
所在地:三重町内山527
指定年月日:昭和52年3月31日
(彫刻) 木造阿弥陀如来坐像
市辺田八幡社境内の阿弥陀堂に安置されており、像高261cmの巨像である。樟材を使用した寄木造(よせぎつくり)で玉眼(ぎょくがん)を嵌入(がんにゅう)し、内刳りを大きくとり、像の表面に漆箔を施す。頭部と体部の根幹部は鎌倉時代末期頃の製作と推定されているが、両肩先から膝前部にかけては近世の後補と思われる。神仏混合で同境内にあった神宮寺より移転されたものと伝えられている。
所在地:三重町赤嶺1461-3
指定年月日:昭和33年3月25日
(彫刻) 木造大威徳明王像
吉祥寺に安置されており、像高は91cmである。桧材の寄木造りで内刳り(うちぐり)を施す。六面六臂六足(ろくめんろっぴろくそく)の多臂(たひ)像で、正面を向いた臥牛の上にまたがる。牛の胎内銘により鎌倉時代の弘安7(1284)年大仏師覚昭の作で、三重郷地頭(安達泰盛)や広福寺院主及び同遍照を願主としていることが分かる。三重郷地頭及び仏法の興隆祈願、さらに元寇の脅威に対する戦勝祈願のため奉納されたと推定される。
所在地:三重町松尾1497
指定年月日:昭和33年3月25日
(彫刻) 吉祥寺木造不動明王立像
吉祥寺に安置されており、像高は117.0cm、桧材の寄木造りである。眼は彫眼(ちょうがん)で、像容は鎌倉時代後期の作風を残す。その像容は不動明王像の定型に則ったもので、中央仏師の手による手法と見られる。光背は2面が現存している。鎌倉時代後期の13世紀後半頃の、大威徳明王像と同一の作者の手による製作とみられている。
所在地:三重町松尾1497
指定年月日:平成元年3月30日
(彫刻) 蓮城寺木造薬師如来三尊像
蓮城寺薬師堂の中央に主尊の薬師如来坐像及び脇侍の日光・月光両菩薩坐像が安置されている。像高は主尊が164.7cm、右側の日光菩薩が145cm、左側の月光菩薩が146cmでいずれも桧材寄木造の漆箔像である。主尊が彫眼(ちょうがん)であるのに対し、両脇侍は玉眼(ぎょくがん)嵌入りとする。像容から三尊とも鎌倉時代の作と推定されているが、須弥壇(しゅみだん)・台座は後補であり、主尊の光背も後補である。
所在地:三重町内山521
指定年月日:平成6年3月25日
(彫刻) 中尾区木造如来形立像
三重町中尾区釈迦堂と呼ばれる小堂にあり、像高165.5cm、彫眼彩色(ちょうがんさいしき)像で檜材の一木造りである。作風より平安時代後期の作とみられ、木彫仏では市内でも最古級に属すものである。現在左手に薬壷を持っているため薬師如来像といわれていたが、明治時代に修理された際の後補であると考えられ、本来は釈迦如来像とみられる。その他両足先、後背等も後補である。以前は旧大楽寺の本尊であり、江戸時代に現大分市稙田大楽寺移転の際現在地に安置されたと伝えられている。
所在地:三重町久田2863
指定年月日:平成6年3月25日
(彫刻) 蓮城寺千体薬師像(998躯)
蓮城寺薬師堂の薬師三尊像の両脇に並んで安置されている。総数は1008体と伝えられるが、実際は998体である。総高は約80cm、像高は約65cmとすべて同様の法量で統一されている。大部分は桧材であるが、他に樟・カヤ・キリ材もみられる。技法について多くは寄木造りであるが、その作風にも違いがみられるため、複数の仏師集団による制作と推定される。室町時代の作と推定され、経緯や作者については不明であるが、同様のものは全国的に例がなく貴重な作品といえる。
所在地:三重町内山521
指定年月日:平成8年3月29日
(彫刻) 大渡石造地蔵菩薩像
像高66cmで凝灰岩角柱の正面に地蔵菩薩像が彫られているが、上半身はやや肉厚にあらわし、下半身は線刻で刻むなど技法に変化を持たせている。銘文により永享2(1430)年に願主道恵により作られたことがわかる。裏面にも線画が施され、地元では両面地蔵と呼んでいる。
所在地:緒方町越生3104
指定年月日:昭和50年3月28日
(彫刻) 木造如来形坐像
緒方町軸丸南の熊野社に安置されていた丈六の木造仏。印相(いんぞう)を欠失しているためその尊名は不明である。頭部から体幹部にかけて樟一材で彫成され、背面に内刳りを施し、立体感のある造りは、古式の様相を有しており平安後期の作と推定される優品である。現在は、保存のため豊後大野市資料館内に安置されている。
所在地:緒方町軸丸
指定年月日:昭和52年3月31日
(彫刻) 木造不動明王坐像残欠
緒方町軸丸南の熊野社に安置されていた丈六の不動明王像。瞋目(しんもく)、半眼の天地眼で唇をかみ上下牙を現す。頭部から体幹部にかけて桧一材で彫成され、躰部に内刳りを施す。両手両足を欠失しているがまれに見る巨像で平安後期作と推定される優品である。現在は、保存のため豊後大野市資料館内に安置されている。
所在地:緒方町軸丸
指定年月日:昭和52年3月31日
(彫刻) 木造阿弥陀如来坐像
柴北の大聖寺の本尊でもある木造の阿弥陀如来坐像。像高は87cmで、頭部と体幹部を桧の一材で創り出され、おだやかな面相と整美な着衣は平安後期の特色が現れている。
所在地:犬飼町柴北
指定年月日:昭和63年3月15日
(工芸品) 伊丹家刀
長さ69.6cm、反り1.2cmで、江戸時代初期の延宝7(1679)年2月に藤原行房による作である。大分市の高田付近の刀工で、刃中の荒沸(あらにえ)が深くつき、働きが盛んで折れず曲らずよく切れるという特徴を持った代表的な豊後刀である。
所在地:三重町
指定年月日:昭和58年4月12日
(工芸品) 太刀(豊州甲斐本藤原行久)
長さ129.8cm、重さは2.05kgで、鎬造り(しのぎつくり)、丸棟(まるむね)で幅広く長寸である。銘文により安土桃山時代の天正13(1585)年8月に、三重町中尾の地に居住した甲斐(賀井)本鍛冶の藤原行久の作であることが分かる。中世の甲斐本鍛冶は戦国大名大友氏の御用鍛冶であり、当時島津氏と抗争の緊張下という経緯の元で製作された奉納刀と推定される。
所在地:三重町市場
指定年月日: 平成13年4月13日
(工芸品) 薙刀(平鎮教)
神志那家に古くから伝わる薙刀(なぎなた)で、長さ59.4cm、重さ1.26kgで柄も保存されている。平高田の作風である。神志那家系図により、大友宗麟公の娘が都氏(神志那氏の養子)に嫁入りの際に持ち込まれたものと伝えられている。作者は銘から「平鎮教」と判断でき、室町時代後期の作と推定されている。
所在地:三重町井迫
指定年月日:平成15年3月31日
(工芸品) 薙刀(豊後国大野住人藤原行家)
長さ66.7cmで、銘文により三重町中尾の地に居住した甲斐本鍛冶の藤原行家の作であり、銘文は「豊後国大野住人藤原行家 寛永二年二月」で、江戸時代初期の寛永2(1625)年の作である。行家は藤原行久の子で、行長の弟といわれている。
所在地:三重町市場
指定年月日:平成15年3月31日
(工芸品) 伊丹家刀
長さ70.4cm、反り2.5cmで、江戸時代の貞享2(1685)年8月に藤原忠行による作である。大分市の古国府付近の刀工で、地刃も健全で、地鉄(じがね)小板目(こいため)でよくつみ、刃中(はちゅう)沸(にえ)よくつき、反り深く姿のよい豊後刀の特徴を備えた優品である。
所在地:三重町
指定年月日:平成2年3月29日
(工芸品) 銅鰐口 (加賀知鰐口)
鰐口(わにぐち)とは神社や寺院の堂前、軒下に下げ太い紐で打ち鳴らす仏具で、下辺に口を大きく開いたようなその形状から鰐口と呼ばれるようになった。この鰐口は面径20cm重さ3kgで青銅製。銘文から、文安6(1449)年に住江村地蔵堂に奉納された後、天文15(1546)年に円通寺に移されたものであることがわかる。住江地蔵堂と円通寺については、所在地不明である。
所在地:緒方町冬原
指定年月日: 昭和48年3月20日
(工芸品) 羽田家鰐口
面径17.4cm青銅製の鰐口(わにぐち)。銘文には永正17(1520)年願主□藤太郎が「天長地久・諸世安穏・後生善処・皆合満足・子孫繁栄」のため奉納したとことが記されている。また、「筆者松本蘇平」の銘が見え、筆者名のある鰐口として貴重である。
所在地:緒方町上畑
指定年月日:昭和52年3月31日
(工芸品) 神角寺懸仏(4)
神角寺本堂内に掛けられている4面の懸仏(かけぼとけ)。径40cmを計り、中央に千手観音、左右の花瓶と、尊の頭上に天蓋(てんがい)・瓔珞(ようらく)がついている。室町時代前期の作とされる。
所在地:朝地町鳥田1355
指定年月日:昭和49年3月19日
(工芸品) 上津神社鰐口
永禄12(1569)年在銘の鰐口(わにぐち)。奉納者として「戸次道雪(べっきどうせつ)」と記されている。道雪は戸次鑑連(べっきあきつら)・立花道雪(たちばなどうせつ)とも称し、大友宗麟の重臣として支えた名将である。当時大野は戸次氏の本地でもあり、上津神社は大野荘の鎮守でもあった由緒を持つことからその歴史的な価値は高い
所在地:大野町片島
指定年月日:昭和52年3月31日
(歴史資料) 大迫磨崖大日如来坐像
大迫区の県道(旧国道57号線)沿いの壁面に彫り込まれた磨崖仏。この磨崖仏の最大の特徴は、岩肌を彫り込んで大まかな像を造りだし、その上に麻などの繊維を混ぜた粘土を塗って表面を仕上げる石胎塑像(せきたいそぞう)とも称される技法で造り出されている。像高は3.3mで、鎌倉時代後期の作と推定される。
所在地:千歳町長峰1526
指定年月日: 昭和51年3月30日
(考古資料) 銅経筒
平安時代後期の永久3(1115)年、願主が経典を埋納する容器として使われた経筒で、「鋳師橘是貞願主僧定□為父母孝養修如法経願焉」の銘がある。総高38.5cmである。宝暦8(1758)年に三宮社付近で出土の報告を受けた岡藩八代藩主中川久貞公は、「父母孝養」の銘文に感激し、三宮社境内に記念碑を建立した。現在は、保存のため豊後大野市資料館内で保管されている。
所在地:緒方町上自在
指定年月日: 昭和42年3月31日
(考古資料) 銅経筒 附天蓋
天明2(1782)年に台風で倒れた大行事八幡社の古松の下から発見された経筒。銘に「□□元歳丙午閏十月 循行僧友千」とあり、平安時代後期の大治元(1126)年製と考えられる。願主が経典を埋納するために使われた容器で、総高は27cmである。別個体の同形の天蓋のみが一つあり、他に積上式胴部三個と蓋・基部からなる経筒もあり、大行事八幡社には三個体分の経筒がある。現在は、保存のため豊後大野市資料館内で保管されている。
所在地:緒方町大化
指定年月日: 昭和42年3月31日